後七日御修法の陣中御見舞いで本庄市へ

後七日御修法(ごしちにちみしほ)は、毎年1月8日より14日まで京都の教王護国寺(東寺)に於いて真言宗十八本山の御山主猊下をはじめ各山の高僧方15名にそれぞれ配役を司り、1日3座7日間にわたり天皇の身体安穏と国家の安泰や世界平和を祈願する修法です。

今年は、法類である埼玉県本庄市の西光山 宥勝寺の吉田宏晢先生が後七日御修法に行かれています。本来であれば京都の東寺に陣中お見舞いに伺わなければならないところなのですが、どうしても都合が付かず本庄の宥勝寺様に直接お見舞いに伺うことといたしました。

圏央道が開通したため、本庄まで思ったより時間をかけずに到着することができました。以前は菖蒲町から下道で本庄まで行くか、高速だと東松山インターまで下道で行き、そこから関越自動車道で本庄児玉まで行かなければなりませんでしたが、圏央道開通により白岡菖蒲インターから1時間ちょっとの時間で到着できます。

寺院縁起(以下、宥勝寺ホームページから添付)
寺伝によると建仁2年(1202)有荘氏(後に本庄氏)により開創された。始め有道宿弥武承惟行五世の孫児玉党旗頭、有荘太郎家長の嫡子小太郎頼家が寿永三年(1184)一の谷の合戦で戦死したので、その妻が菩提を弔うため法印良運を京より迎え一寺を建立、有荘寺と号し自らも得度して妙清禅尼となった。

これより前、有道惟行は沙門空海巡礼の地、浅見山に一寺を建て阿弥陀如来を安置し西光寺と称していた。 延年二年(1337)新田足利の兵火で焼失、天文六年(1538)北条、上杉の戦国兵乱の時無住になった。 荒廃するを惜しみ紀州根来寺より僧頼暁来り、天文二十四年(1556)西光、有荘の両寺を合併して一寺となし、西光山無量寿院宥勝寺と改称された。 爾来、末寺四十数ケ寺を有する地方有数の名刹となり、慶安元年(1648)良弁僧都の時、徳川家よりご朱印拾石を賜る。